
原宿(富士市)
歌川広重 浮世絵版画 原宿 国会図書館 錦絵蔵書



千本松原

天候が良ければ正面に霊峰富士山が見える筈。
看板に偽りあり
とかくこの世は誇張して宣伝されるが常道。
しかし、ここ千本松原は違っている。
駿河湾に沿って延々と続く松原は
千本どころか何万本の松並木が続いている。
勿論、純粋な松並木ではなく雑木もかなり
混じってはいるが車で走っても走っても
尽きる事が無い程に続いていて、まさしく
日本一の松並木だ。
清梵寺
松陰寺
浜の供養塔
要石神社
桃里改称記念碑

清梵寺の縁起
平安時代の初期、安房国に得萬長者という
信心深い人がいたが旅の途中で原宿で
病いに倒れ帰らぬ人となった。
従者は長者の遺言通り大きな塚を築き手厚く
葬った。その後、長者の妻は出家して梵貞尼と
名を改めた。 原宿の夫の墓に詣でた時
近くの網元が生前夫が信心していた地蔵尊を
網にかけて持ち帰って来た。
梵貞尼の孝貞に心打たれた網元も出家して
清信禅居士と名乗り梵貞尼と協力して堂を建て
地蔵菩薩を安置した。
その後、この地に二人の名前からニ字を取り
清梵寺を創建した。
珍しい石瓦葺きの山門
スリ鉢の松
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に
原の白隠」と詠われた白隠禅師は1685年に生まれ
19歳より諸国の旅を重ね、精魂を尽くして修業を積み
1717年に松陰寺の住職になる。
禅の大衆化を図り、500年に一人と言われるほどの
高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれた。
白隠が岡山城主池田候から贈られた
備前焼のスリ鉢を台風で裂けた松の枝の
雨除けにかぶせた事からスリ鉢の松と
呼ばれている。
1841年に原壱ヶ浦漁業の守護神として
建立された。
漁業者は水難者を丁寧に祀る事が
豊漁と人々の幸につながるという信仰を持ち
その信仰により建立された。
地中に大鯰がいて時々動いて地震を起こして人畜に被害を出した。 要石は地上に露出しているのは
僅かだが地中は広大に広がっていて、この巨石を鯰の上に置き動きを封じたとされている。
要石神社は耳の悪い者が穴明きの石を奉納して祈願すれば治癒するとも言われている。
遠州浪人の鈴木助兵衛が開墾して
助兵衛新田と呼ばれた。
1908年に県知事に改称を申し出た。
当時この地では桃をよく作っていたので
桃里と改めた。
記念碑には助兵衛の功績と桃里改称の
経緯が記されている。
記念碑は鷹浅間神社の鳥居横に
建立されている。
宿場としての面影は全く無い。
常夜燈が僅かに往時を偲ばせてくれた。






